HALL OF GLASS
映像的音空間からイメージの世界へ
HALL OF GLASS の過去~現在
Face bookに載せていたものを中心にまとめてみました(長文です)
三流大学の哲学科へ入学したカズロウは、ぬるま湯につかっているような毎日を送っていた。
哲学が好きで哲学科へ入ったのだが、哲学が屁理屈に思えるまでそう時間はかからなかった。
キリスト教徒である教授の授業でキリストを否定しては単位を落とされる、そんな大学生活だった。
今にして思えば、好きだったのは哲学ではなく、独特の考え方の出来る人の話であったのだが、当時のカズロウにはそれを知るよしもなかった。
よく人から「暗いね」と言われていたのだが、そう言われるとカズロウは「ありがとう」と答えていた。
カズロウにとって暗いと思われるのは褒め言葉だったのである。
そんなある日、めずらしく哲学科のコンパに出たカズロウはそこでパンク少年ヒデユキと出会う。
話すようになったきっかけは、ロバート・ワイヤットの歌う、シップビルディングだった。
もともとエルビス・コステロの曲なのだが、ワイヤットは物悲しくカバーしていた。
バウハウスが好きだというヒデユキは独特の感性を持っていた。
音楽だけでなく、絵画、小説など、アート全体に興味を持っていた。
ヒデユキとの出会いがその後のカズロウの音楽性に大きな影響を与える事になる。
ほどなくしてヒデユキは大学をやめていった。
この大学で学ぶものなどなかったのだろう。
つきあいのあった数少ない友人はなぜか、次々とやめていった。
そんなある日、カズロウはふとした事から、ヒデユキの参加しているバンドをライブハウスで見る事になる。
ヒデユキはベースで参加していた。
このバンド、ボーカルもギターもそれぞれ個性があって面白い音をだしていた。
このころから、カズロウもこの大学にいる事の意味を見いだせなくなっていた。
そしてついに中退してしまう。
時代はバブル期の絶頂にさしかかっていた。
しかし、定職につかなかったカズロウはなんの恩恵もうけずにこの時期を過ごす事になる。
電話もテレビも無い生活。財産といえば1台のシンセサイザーとカセットテープの4ch MTRのみだった。
そんな生活を送っていたカズロウがヒデユキの参加しているバンドに参加するのは必然の流れだったのかもしれない。
だが、結局このバンドも脱退してしまう。
そして超絶技巧ギタリストのマコトと出会う。
プログレ好きのマコトは箱バンをやりながら生活していたのだが、既存の音に嫌気がさし、自分の音楽をやるために、職業としての音楽をやめ、働きながらメンバーをさがしていた。
未だにマコト以上テクニックのあるギターには出逢った事がない。
テクニック、アレンジ、共にすばらしいギタリストだった。
しかし、ニュー・ウェーブ系の音楽に傾倒していたカズロウはマコトとバンドを結成する事はなかった。
何曲かの作品が手元に残っただけであった。
ちょうどこのころ、カズロウは楽器屋も併設しているレコード店でアルバイトをしていたのもあって、バイトでありながら無理矢理社員割引を使って現在も現役中のシンセサイザー、ローランドのD50を手に入れる。60回ローンをくんで、ミキサー、やエフェクター、それらを組み入れるラックを購入したのである。
HALL OF GLASSの音楽はこれらの機材を使って生み出されていくのだ。
カズロウはついに自己のバンドを結成すべく、Player(音楽雑誌、当時メンボはこの雑誌のメンボ・コーナーが主流であった)のメンバー・募集に記事を出した。
そこでギターのフミと出会う。
フミのギターは決して上手くはないのだが、センスは抜群だった。
マコトがテクニック抜群のギタリストなら、フミはセンスの塊だった。
同じような音楽を聴いてきたのもポイントが高かった。
カズロウはフミとリハを重ねながら、他のメンバーをさがしていった。
バンド名はカズロウが最初から決めていた。
Group87というバンドの曲に「Hall of Glass」という曲があるのだが、その曲名をバンド名にしたのだった。
Group87はg:ピーター・マウヌ、b:パトリック・オハーン、tp:マーク・アイシャム、ヘルプでdr:テリー・ボッチオ、からなるザッパ門下のスーパー・グループだった。
その中の幻想的な曲、それがHall of Glassという曲なのである。
他のメンバー探しは難航していた。
カズロウは数少ない友人の一人であるベーシスト、ジュンに声をかけた。
ジュンは働いていたので、メンバーではなく、ヘルプとして参加してくれた。
ボーカルもなかなか見つからなかった。
そこでジュンが、知り合いのボーカルに声をかけやはり、ヘルプでの参加になったが、drを除くメンバーが決まった。
drが一番見つけにくかった。
仕方がないのでdrはリズムマシンを使ってリハを重ねていった。
そしてHALL OF GLASS 記念すべき1stライブが決まった。
だがこのライブのあと、ジュンとボーカルが抜けてしまうのである。
カズロウはフミとメンバーをまた探し始めた。
そしてb:マモルとvo:M子が新たにメンバーになった。
M子は当時現役の女子高生だった。
この4人で、しばらく活動が続いた。
しかし、voがいまいちだったので、カズロウとフミはボーカルをまた探す事にした。
そして実力では、歴代ボーカルでも№1であろう、ヒメクサが加入するのである。
しかし、ここでまた問題が発生した。
bのマモルとヒメクサの仲があまり良くないのである。
ここで苦渋の決断で、マモルにはやめてもらい、新たなbを加入させる。
それがヒグラシである。
ヒグラシは結構顔が広く、バンド結成以来、初となるdrをつれてきた。正確にはヘルプで1回ライブをこなしただけだったが。
このdrがメチャクチャうまいdrだった。
それもそのはず、このあとすぐにメジャーのバンドに加入した事をあとで知った。
しかし、この後すぐにdrがみつかる。
ケンジである。
vo:ヒメクサ、g:フミ、kb:カズロウ、b:ヒグラシ、dr:ケンジ、
この5人での活動がしばらく続く事になる。
この頃、ようやく定期的に演奏するハコが出来た。
目黒にあるライブステーションである。
HALL OF GLASSは月1回のライブをこなしながら、順調に活動を続けていた。
この頃、バンドの最初のテープを作成した。
当時はカセットテープが主流であった。
このライブ音源から抜粋した8曲入りのテープは、タイトルをReflectionと名付けた。
デザインはフミが担当した。
カズロウとフミは都内のレーコード店を回り、テープを置かしてもらう店を開拓していった。
同時に、カズロウはこのテープを海外のメディアにも送りつけた。
フランスやドイツなどのいくつかのミニコミ誌で取り上げてもらう事が出来た。
そんなある日、ベースのヒグラシから連絡があった。
ヒグラシがこっそり応募していたビデオテープがオーデションを通過した、というのだ。
そのオーディションはイカすバンド天国(通称イカ天)だった。
カズロウは反対だったが、メンバー達に説得され、HALL OF GLASSはTVに出る事になったのだ。
演奏曲は「Monochrome Boy」に決めた。
だが、TV出演と引き換えに、Monochrome Boyの著作権は番組が持つ事になるので、当時HALL OF GLASSの代表曲であったMonochrome Boy は幻の曲になってしまうとは夢にも思わなかった。
収録も無事終わり、いよいよ出演の日がやってきた。
この日は運が悪い日だった。
当時のチャンピオンである「たま」が5週目だったのだ。
5週勝ち抜くとグランド・チャンピオンになれるのだった。
さらに、マルコシアスバンプも出演者にいたのだ。
ロザリオと同じ週だった、というほうが分かりやすいかもしれない。
結果は、たま がグランドチャンピオンで、マルコシアスバンプが仮キングになった。
HALL OF GLASS はというと、完走(演奏がつまらないと収録した曲が途中で打ち切られる、というシステムだった)はしたもののキングにはなれなかった。
だが、ボーカルのヒメクサがベスト・ボーカル賞にかがやいた。
そしてTV出演の効果は、早くも次のライブ現れた。
数人ではあったが、TVでHALL OF GLASS を知り、ピアのライブスケジュールを見て来てくれた人がいたのだ。
音楽性がマニアックなのでLIVE STATIONが満員になるはずはないのだが、少しでもいいと思う人がいてくれて嬉しかった。
このまま順調に活動は続いていくはずだったが・・・
HALL OF GLASS / Reflection (tape)
ボーカルのヒメクサがバンドをやめる、と言ってきた。
社会人であるヒメクサは活動がつらかったのであろう。
それにベスト・ボーカル賞をとってもどうにもならないバンドに嫌気がさしていたのかもしれない。
ドラムのケンジも、ヒメクサがやめるなら、自分もやめる、と言ってきた。
ボーカルとドラムを一度に失う事になった。
と、ギターのフミが、「どうせなら、ベースも新しくしようぜ」と提案した。
HALL OF GLASSはギターのフミとキーボードのカズロウ、2人になっていた。
2人になって直後のライブがせまっていた。
あまりにも急だったので、メンバーは決まらず、なんと2人でライブをこなした。
フミ:G&ボーカル、
カズロウ:KB&ボーカル&シンセ・ベース
+リズム・マシン
というスタイルだった。
自分の曲を歌いまわす、という事でライブは終了した。
HALL OF GLASSが男性ボーカルだったのはこの1回だけだ。
カズロウは再度、プレーヤーにメンボの記事を載せた。
今回は多くの人から連絡があった。
ボーカルはいい人がいなかった。
HALL OF GLASSの曲は歌ってみると滅茶苦茶むずかしいのだ。
歌える人がまずいなかった。
そんなある日、一人のボーカリストから連絡があった。
ニュー・ウェーブ系も好きだというので、テープを郵送し、スタジオで歌わせる事にした。
それがポチコである。
若い頃のポチコの第一印象は、「こいつ生意気だなー」であった。
HALL OF GLASSは渋谷のBYGというロック喫茶の地下にあるスタジオでよく練習していた。
ポチコの最初もそこでのリハだった。
思ったより歌えたので、ポチコがメンバーに決まった。
ポチコ加入後の最初のライブは上野の野外音楽堂での企画に参加してのものだった。
ボーカル以外は決まっていなかったので、ベースは結成当時に弾いてもらったジュンに手伝ってもらう事にした。
ドラムはリズム・マシンを使用した。
次のライブはLIVE STATIONに戻ってのライブだった。
この時は大学のときの友人であるヒデユキにベースを手伝ってもらった。
色々な人にベースは手伝ってもらいながら、最後はシーケンサーに落ち着いた。
3人での活動がはじまった。
意外な事に3人になってから、海外でのウケが良くなった。
ミニコミ誌ではあるが、ポチコのアップが載ったりした。
米国でミニコミ誌をやっているマイク・エッゾと文通してたのもこの頃だった。
マイクはよく手紙をくれた。
自分でもNEW CROSSというプログレ・バンドでドラムを叩いていた。
レコードを送ってもらった。
また、この頃、イメージで絵を描いてくれる人が現れた。
現在も使用している絵はこのころ描いてもらったものなのだ。
暗さと愁いをおびた絵はHALL OF GLASSの音楽とマッチしていた。
本人は服飾デザイナーを仕事としてる若い才能ある画家であった。
色々な人に助けられながらHALL OF GLASS はポチコをフロントに立てた、第二黄金期に入っていた。
加入時のポチコ
ポチコはULTRAVOX、カーペンターズ、山口百恵が好きだ、と言うように、聴いている音楽には節操がなかった。
なんでも受け入れてしまう性格なのだろう。
カズロウはまず色々な暗い音楽をポチコに聴かせた。
意外にも暗い音楽は結構好きなようだった。
ニューウェーブ系はほとんどいけた。
プログレ系も抒情的なものはいけるのだが、ELP的なものが唯一だめだった。
ザッパはいけるのに、そこがポチコの不思議なところだった。
UKは聴けた。
「もしかして、こいつルックスできめてるのか?」
とカズロウは思った。
ジョン・ウェットンがポチコのお気に入りだった。
クリムゾンではなく、エイジアだったが。
クリムゾンもRedは結構好きなようだった。
その頃、カズロウはポチコのボーカルがいまいちだと思っていたのだが、それを覆す出来ごとがあった。
カラオケである。ポチコはカラオケではかなり上手いのである。
「お前、バンドの曲は手を抜いてるだろ?」
カズロウはおもわず突っ込んだ。
「HALL OF GLASSの曲は滅茶苦茶難しいんだよ」
ポチコはそう答えた。
「歌ってみるまで、わからなかったけど、歌ってみたら難しかった」
ポチコはクリムゾンのスターレスをカラオケで歌いながらこう付け加えた。
3人でのライブは続いていった。
ドラムを探しながら、リハも3人でつづけていた。
対バンはいつも悩みの種だった。
どんな対バンでも、HALL OF GLASS は浮いてしまった。
当時のポチコはまったく曲間でしゃべりを入れない事で有名だった。
そう、キャラが確定していなかったのである。
いまでこそ天然キャラであるが、当時はその片鱗を見せることはなかった。
淡々と進むライブ、それが持ち味だった。
月1回のライブ、それが当時の目標だった。
ライブハウスはいつしか、目黒Live Station から、仙川のゴスペルへ移っていた。
カズロウはドラムが見つかったら、Live Station へ戻るつもりだった。
だが、ここでバンド最大の危機が訪れる。
いつまでも進歩のないバンドに業を煮やしたギターのフミがやめると言いだしたのだ。
フミはテクニックのあるギターではなかったが、センスは、並はずれたものを持っていた。
曲の半分もフミが創っていた。
そしてなんといっても、HALL OF GLASS はカズロウとフミが始めたバンドだった。
ギターなくしてバンドのサウンドが維持できるのだろうか?
カズロウにはフミを止めることが出来なかった。
脱退したフミの穴を埋めるべく、色々なギターとリハを重ねたが、フミのレベルのギターがいるはずもなかった。
バンドは天才ギタリストとカズロウのやる気を失っていた。
そして3人が残った
ライブ毎にサポートメンバーが入れ換わり、ついにはポチコとカズロウの2人だけになった。
2人になってもカズロウはKBだけは手弾きにこだわり続けた。
心のどこかにフミが戻ってくれるのを期待していたのだろう。
シーケンサーはドラムマシンとベース音源のみを動かすだけにとどめた。
メンバーが2人になってからは、機材との戦いだった。
今とはくらべものにならないくらい、当時のシンセは重かった。
当時のカズロウのセットは、
シンセ2台、KBスタンド、シーケンサー、リズムマシン、ベース用の2Uの音源、であった。
これを1人で電車で運んでいたのだ。
当時のカズロウは体重56kg。そう、ガリガリだったのである。
ライブの帰りに、鉄製のKBスタンドを捨てて帰った事もあった。
電車でKBを2台運んでいる人を見た事があるだろうか。
自分以外には見た事がない。
貧乏なKBはただただつらいだけなのである。
KBをやるなら、車と免許が必要不可欠だ。
間違っても、電車で運んではいけません。
行きの移動だけで、疲労困憊してしまい、演奏どこではないのである。
そんなある日、ついに見に来てくれる人が一人もいない日が来てしまった。
そう、活動はもう限界だったのである。
おまけに、若いギターをスタジオで鍛えて、さあ、そろそろライブかな、という矢先にまさかのバックレ。
カズロウは完全にやる気を失っていた。
まだ、歌いたいポチコの意見は完全に無視された。
もうカズロウのシンセから音が出る事はなかった。
残ったのは、機材を買うために使ったローンという名の借金だけであった。
2人編成でのライブ
あんなに頑張ってきたのに、もはやカズロウは抜けがらだった。
自ら、余生と言いきり、だらけた生活をしていた。
そこには、なんの創造性もなかった。
毎日、働きに出て、帰ってきて寝る、ただそれだけの生活が続いた。
だが、一般的な人たちに溶け込めるはずもなく、カズロウは変わり者だと思われていた。
一方、カズロウも、普通の生活にはまったく馴染めなかった。
クソつまらない生活が永遠に続いていた。
まったく価値感の違う集団の中では、ストレスが溜まるだけであった。
そんな生活を20年ほど続けたある日、
「また、音楽始めない?」
と、ポチコが言いだした。
「そうだな、お前がなにか楽器をやりながら歌うんだったらいいよ」
カズロウはそう答えた。
長い余生に飽き飽きしていたカズロウも本当は音楽をやりたかったのだ。
20年のブランクがあったにも関わらず、機材は無事であった。
ただ、頭の中からは機材の知識がなくなっていたし、演奏能力もないに等しかった。
問題は、ポチコが何の楽器を持つかであった。
「あたし、ギター弾くよ」
ポチコは能天気にそう言った。
が、ポチコがギターを弾く事は無理であった。(ギターをなめんなよ)
「じゃ、ベースにするよ」
ポチコも必死だった。このチャンスをのがせば、一生音楽から離れてしまうのではないか、と感じていたからだ。
HALL OF GLASS はまず、既存の楽曲を録音する事から再び始めたのである。
昔、あれほど高かったKBが中古ながら1/10ほどの値段で買えてしまう。
同時発音数128音の音源が2万で手に入れる事の出来る時代だった。
昔あれほど高かった4chのカセットテープのMTRが、今やハードディスクになり、チャンネルも16ch、CDレコーダーまでついて6万で買えるようになっていた。
ちょっとしたカルチャーショックだった。
一番の驚きはDTMと呼ばれている録音用のコンピューターソフトだった。
チャンネルは無限に増やせるし、エフェクターも各チャンネルに使い放題。
おまけにマスタリングまで出来てしまう。
すでにまったくKBを弾けなくなっていたカズロウは昔のライブテープを持ちだし、自分のコピーから始めなくてはいけなかった。
次にカズロウはドラムにコンプレッサーをかけ、シンセを録音し、オケを完成させていった。
あとは、ポチコのボーカルとベースの録音だけであった。
ポチコの録音は難航していた。
ベースもボーカルも思うように録れなかった。
ベースにいたっては、シーケンサーのフレーズをコピーして弾くしかなかった。
録音と挫折を繰り返しながら、3年が過ぎ、ようやくマスターCDが完成した。
それが「Faded Landscape -色褪せた風景-」であった。
当初カズロウは、自分でCDを焼き、ジャケットを作成して、自主制作しようと思っていたのだが、あまりにも時間がかかるのと、どうしても全国流通してみたかったので、業者にプレスを頼む事にした。
CDを焼き、ジャケットをプリンターで印刷し、CDケースに入れる作業は1枚作るのに、1時間かかることが分かった。
そして、CDを流通させるのには、バーコードが必要である事、キャラメル包装していないと流通には載らない事など、色々な壁があったからだ。
バーコ-ドは自分で申請し、なんとか取得した。
しかし、流通は業者に頼むしかなかった。
そして色々見積りを取った結果、CDプレスミーに頼む事に決めた。
なんと言ってもプレスからパッケージまでが格安であるし、全国流通も無料でやってくれるからだ。
これで国内ではどこでもHALL OF GLASS のCDは買えるようになった。
次は世界進出だ。
検討した結果、CD Baby というアメリカのインディーズ専門の業者が見つかりそこへCDを卸す事にした。
その結果、アメリカのamazonや、ヨーロッパ各国のamazonでも買えるようになった。
これでカズロウの再始動の目的は達せられた。
しかし、ポチコは、せっかく練習したベースを弾きながら歌ってみたくなってしまっていた。
と、そこにまさかのライブ・オファーがアイルランドから届いたのだった。
きっかけは、Musicians Together という音楽サイトだった。
ユーチューブに似ているこのサイトは、音楽専門のサイトで、アマチュアのためのサイトである。
ユーチューブから、Musicians Togetherの創始者であるマークがさそってきたのだ。
(残念ながら現在は閉鎖されている)
なにげに、いくつか曲をUPしてみたら、思いのほか好評だった。
なかでも、アイルランドのトニー、ジョン、ブライアンはとてもフレンドリーだった。
ジョンはCDレビューを書いてくれた。
こんなに素晴らしいCDレビューは初めてだった。
ポチとカズロウは冗談のように、「いっそ、アイルランドに行っちゃうか」と言っていたのだが、なんと本当に行くチャンスが来た。
アイルランドで演奏したい、といったら、来い、という返事がきたのだ。
日本とアイルランドはユーラシア大陸をはさんで、西と東の端と端。
しかも直通便はない。ロンドンのヒースロー空港で乗り継がなくては行けないのだ。
もちろん、電圧や、コンセントの形状も違う。変圧器や、アダプターは必須である。
なにより、初海外なのだ。
盛り上がらない訳がない。
いきなりアイルランドで演奏するのは不安だったので、国内でライブをこなしてから行こう、と言う事になった。
記念すべき20年ぶりのライブは練馬のBE-Born に決まった。
そこでの出会いがHALL OF GLASSを劇的に変化させてくれる事になるのだが、この時はまだ2人とも知るよしがなかった。
いよいよ、20年ぶりのライブの日がやってきた。
練馬にあるBE-Born というライブバーでの「お気楽ライブ」という枠での出演だ。
機材だらけのHALL OF GLASSは、トップでやる事にした。
ここは出順は希望をいい、かぶった時はジャンケンで決定する、というシステムだ。
20年ぶりのライブでポチコはガチガチだった。
制御のきかないでかい声がハコに響き渡る。
まあ、最初はこんなもんかな、とカズロウは思った。
ポチコはかなり落ち込んでいた。
その時であった。
「D50を使ってるんですか」
と出演者の一人が話しかけてくれたのだった。
これが、BE-Bornでの最初の出会いだった。
(BE-Bornではバンドの運命を左右する出会いが2回あった)
話しかけてくれたのは、シンガーソングライターの浅見太郎さんだった。
聴けば、本人も昔はKBを弾いていたという。(今でもかなりピアノうまいです)
話しているうちに、浅見さんは、代々木の野外ステージで年に何回かライブを主催しているという。
出てみたいという自分達の希望を快く受け入れてくれたのだった。
この日、トリを務めたのが、この浅見さんだった。
ステージを見て、ぶっとんだ。
真のエンターティナーとはこの人の為にある言葉なのだ、と思った。
多分、浅見さんの目には2万人ぐらいの観客が見えているのだろう。
熱いステージは他の誰にも追従を許さない。
未だにこの方より熱いステージをする人には出会ってない。
20年のブランクはちょっとしたカルチャーショックみたいな感じだった。
何より浅見さんからは、対バンへの接し方を学んだ。
自分達は何処へ行ってもほぼ最年長なので、自分たちから声をかけなくてはいけない、と言うことに気づかせてくれたのが浅見さんなのだ。
BE-Born の余韻に浸りながら、いよいよ次はアイルランドだ。
チケットも無事入手できた。
あとは飛行機にのって行くだけだ。
いよいよアイルランド行きがあと一週間に迫ってきた。
初の海外での演奏を夢見てテンションは上がって行く。
が、演奏する場所を探せなかったので、地球の反対側まで重い機材を引きずってくる事はない、というメールが入ったのであった。
残念だが、半ば無理矢理行くと言っていたので、仕方がない。
アイルランドに行けば、メール上でしか知らない人に会えるのだから、それだけで十分楽しみだ。
いよいよ、当日。
成田から飛行機でまずはロンドン、ヒースロー空港へ。
いやー、遠かった。機内で何本映画を見た事か。
ヒースローから飛行機を乗り継ぎ、ダブリンへと向かう。
ついに到着。ダブリンへ。
空港からバスでダブリン市内へと向かい、その日はホテル着で終了。
次の日、ジョン、ジョンの2人の息子、トニー、ブライアンが会いに来てくれた。
感動だった。
ネット上でしか知らない人に、海外で会う。
感慨深いものがある。
ジョンの2人の息子はポチのファンなので付いてきた、と言っていたが、写真(20年前)とはさすがにギャップがあったのか、ちょっと引いていた。
観光したのか、と聞かれ、まだだ、と答えると、近くのシン・リジィ・ミュージアムを案内してくれた。
アイルランド出身のミュージシャンは数多くいるが、地元では、シン・リジィがヒーローなようだ。
泊まっているホテルの近くには、U2のボノが経営するホテルもあった。
トニーが住んでいるところには、ボノやエンヤが住んでいて、よく会う、と言っていた。
アイルランドの人はきさくなので、会うと、「こんにちは」と挨拶をかわすようだ。
そういえば、回りは全部外人(当たり前か)なのに、なぜか外国という気があまりしていなかったのは、アイルランド人がきさくだったからかもしれない。
日本人だからといって、変な目で見られる事もなかった。
アイルランドはとてもいい国なので、正直帰りたくなかったが、そうも言ってられないので帰国した。
アイルランドにて
何回目かのBe-Born でのライブで、再び今日の自分達を決定ずける出会いがあった。
それが、えどにしきさんとおぐまゆきさんだった。
最初にえどにしきさんの歌を聴いた時、この人の凄さを感じた。
手慣れているステージ、奥の深い歌声、何か持ってる人だな、と思った。
おぐまさんは、とにかくインパクトが強かった。70年代のフォークにこんな感じの人がいたな、とその時は思った。
ライブ終了後、2人に近づいて話をした。
多分、浅見さんに会ってなかったら、この時2人と話したい思っても、行動には出なかったかもしれない。
何かが良い方向へころがりだしていた。
後日、えどにしきさんはkaztouを紹介してくれた。
kaztouでの初回のライブで対バンだったのが、ヒロミチだった。
ヒロミチはおぐまさんとは別の場所で対バンですでに知り合いだった。
そんな関係でポチはブログでヒロミチからコメントをもらっていたりした。
演奏が終わった後、ドラムが見つからなくて、と話しをしていたら、
「俺、やろうか」と声をかけてきたのがヒロミチであった。
これが、第三の出会い、ドラムのヒロミチとの出会いである。
えどにしきさんとおぐまさんがいなかったら、ヒロミチはドラムで加入してはいなかったであろう。
プログレでもニューウェーブでもない、女性ボーカル人力KBトリオ、HALL OF GLASSがここに完成した。
ヒロミチ加入後はなぜかライブが次々ブッキングされていった。
記念すべき、クロコダイルでのライブも加入後に決まったライブである。
まだ、練習スタジオにすら、一回も入っていなかったのでこの時は3人でなく、2人で演奏したのがとても残念である。
HALL OF GLASS は迷走を続けていた。
色々なライブハウス、ライブバーなどで次々とギグを重ねていった。
2013年は年間26本、2014年は年間24本ものライブを行っていた。
だが、回りの評判はパッとしなかった。
静まり返るライブ会場に嫌気がさしたポチコは、MCでウケをとろうと思ったのか自分なりに話しを挟み始めた。
だが、会場は凍りつき、話しはどこまでもすべっていく。
ポチコはライブをやっている意味さえ疑問に思いはじめていた。
そんな時、サンクチュアリからのライブオファーが状況を一変させることになる。
プログレのイベントへの誘いがあったのだ。
対バンは皆テクニカルなバンドばかり。
一抹の不安を抱えながらライブに臨んだ。
演奏が終わると、今までにない反応があった。
HALL OF GLASSはサンクチュアリで受け入られたのだ。
同時期に始めた企画、「暗闇の旋律」も好評を得る事が出来た。
2014年のことであった。
再始動後、3年かかったが少しづつ、本当に少しづつではあるが、評価されだしたのだ。
こうなると不思議なものでポチコのウケない話しでさえ温かく迎えられ、拍手や笑いが起こるようになってくる。
ライブ会場はアウェーから一気にホーム状態になった。
だがここからが正念場である。
しかしピンチはすぐに訪れる。
サンクチュアリが2015年の12月末をもって閉店するというのだ。
それに合わせるようにヒロミチも脱退すると言ってきた。
残念な事が重なってしまった。
こればかりはどうしようもなくサンクチュアリは無くなり、ヒロミチも脱退してしまった。
この危機を乗り越えるためにカズロウはサンクチュアリで対バンしたことのあるヒデに声をかけた。
シャープで力強いドラムはHOGに合っていると思ったからだ。
2016年、HOGはドラムにヒデを迎えて再出発を果たした。
サウンドが一番シャープだったのはこの時だろう。
ありがたいことにMOORIさんから鍵盤サミットにお声掛けいただき新生HOGは初ライブを行った。
しかもこの時は誘精さんの復活ライブでもあった。
この上ないステージを用意してもらった形になった。
ヒロミチがベースで戻ってきたのもこの年であった。
ポチコが肩こりが酷く悩んでいたのだが、そんな時ヒロミチがバンドに戻りたいと言ってきたのだ。
だが既にヒデが加入していたのでヒロミチにはベースをやってもらうことにした。
ポチコはここからボーカルに専念する事となる。
そして2017年、バンドは大きな転換期を迎える。
メンバー間がギクシャクし始めたのだ。
その結果、ベースとドラムには同時にやめてもらう結果となった。
再始動してから最大の危機である。
カズロウはまず、自主企画であるElectro Clashに出演を依頼したDead Finger's Talkのリーダーでありベーシストの大山ミキノリに声をかけた。
New Wabe系のベーシストで良いベースを弾くミキノリに加入してほしかったからだ。
ミキノリは自分のバンドの活動もあるためしばし考えていたがHOGに加入してくれた。
あとはドラムだ。
FBで呼びかけたところ、以前ストレングスというライブバーの新年会で知り合ったカオルが「私がうまければ加入するんだけど」というコメントをしてきた。
これをカズロウは見逃さなかった。
新たにタイトで力強いドラマーのカオルが加わった。
そして4人での最初のライブは、目前に迫っていた。
新加入の2人は、わずか3か月でステージに立つことになった。
苦肉の策で半分はVoとKBの2人でやり、残りの曲を4人で演奏した。
ここからこの4人での活動が始まった。
なによりこの4人での活動は楽しかった。
ありがたいことに色々なバンドの方々に企画に呼んで頂いたのもこのころであった。
そして自主企画の暗闇の旋律も軌道に乗ってきたと言っていいだろう。
ミキノリのベース、カオルのドラムもバンドに欠かせないものとなっていた。
ミキノリのベースに至っては、すでにバンドの核となっていた。
2019年になると、HOGにギターが加入する事になる。
2018年に神楽音で対バンだったPLASTIC NEONの神タローが加入したいと言ってきたのだ。
今までギターレスで活動を続けていたHOGはギター泣かせのコードが多かった。
カズロウは迷ったが、神タローのやる気を見て参加してもらう事にした。
ギターは今までモノクロだったバンドに色彩をもたらし、欠けていたピースが埋まったような気がした。
そして2020年、KIATとの2マンライブの後、時代はコロナ禍というパンデミックに突入する。
未知のウィルスは人類にとっても脅威であったし、色々な制限下の中ではライブどころではなかった。
コロナウィルスはその後も猛威をふるい続けた。
この間にバンドからドラムのカオルが脱退してしまった。
暗闇の旋律の会場としていた池袋Red-Zoneも店をたたんでしまった。
いつしか時は3年過ぎようとしていた。
コロナウィルスによる制限が緩和されようやくライブ活動が出来るようになった。
バンドはまずドラムを捜さなければいけなかった。
最初に声をかけたのは、対バンの話をいただいたりアルバム制作に参加させていただいたminoke?の高橋克典だった。
色々なバンドをかけ持つ克典は忙しすぎて無理かな、と思っていたがダメ元で声をかけてみたのだ。
返事は幸運なことにOKであった。
百戦錬磨の克典の加入はバンドに安定感とアグレッシブさをもたらした。
あとは暗闇の旋律の会場である。
3年振りの暗闇の旋律は四谷Doppoに決まった。
この時カズロウはすでに還暦を迎えていた。
2023年、1月、5月とライブを行いHOGの活動は軌道に乗ったかに見えた。
今度は神タローがバンドを脱退してしまったのだ。
ライブ直前にギターが抜けたHOGは、なんとか10月のライブを乗り切った。
不安はあったが4人でのライブは、それぞれの音がはっきり聞こえ、音がまとまったものとなった。
HOGにとってここからの活動は真価を問われるものとなるだろう。
2023年10月、たまたまライブを見に来ていたフミがギターをやってくれる事になった。
オリジナルギタリストの復活である。
色々な偶然が重なって33年振りに戻ってきたフミ。
VainやSilent Dreamなどの昔から演っている曲の完成度の凄い事この上ない。
新しい曲もセンスの良いアレンジが光るものに仕上がっている。
メンバーそれぞれが最高のアレンジで曲を演奏するのはなんとも言えない心地よさがある。
2024年、HOGは新たな門出を迎えた。
ポチコ、ミキノリ、カツノリ、フミ、カズロウ、この5人がHOGの最終形態であると言えよう。
闇の中で燦然と輝くHOGであるために。